わずか数ヶ月滞在ののち、文永9年の4月、大聖人は思い出深い配所塚原から、数キロ離れた石田郷一谷へ移転された。
御書に
「文永九年の夏の比(ころ)、佐渡の国・石田の郷一谷(いちのさわ)と云いし処有りしに」(一谷入道御書)にあるとおりである。
この移転は、幕府が大聖人の身柄を一谷のある石田郷の名主の土屋一族に預け、また、土屋一族が一谷の在家主近藤氏に預ける為であった。
その移転の理由は、
一つは当時の流罪人の制度にある自給自足の為に移された。又、自界叛逆難の予言が的中したことによる待遇改善をはかる為。もう一つは、他宗徒からの迫害から大聖人の身を保護する為、等の説があり冷遇説、優遇説いずれも判断しがたいが、ただ地形的環境では、塚原よりもはるかに不便な僻地で淋しいところである。
在家の主一谷入道は初めは強盛な念仏者であったが、阿仏房夫妻同様大聖人の御振る舞いに接するうちに次第に畏敬の念を抱いていったに違いない。
御書に
「宅主(あるじ)・内々・心あって外には・をそるる様なれども、内には不便げにありし事・何(いつ)の世にかわすれん」(同)と仰せである。
この頃大聖人のもとに海を渡って訪れる信者が多くなった。4月には四条金吾が(小説 四条金吾 第6巻 佐渡抄)5月には乙御前と呼ばれた娘を連れた1人の女性信徒が訪れている。しかし佐渡では大聖人に近づく人間に対して徹底した迫害が加えられた。こうした厳しい状況下にあって、ひたすら著述に専念され「観心本尊抄」をはじめ「祈祷抄」「諸法実相抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」など数多く御述作をなされたのである。